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和菓子の歴史

古代の菓子

食が充分ではなかった古代人は、空腹を感じると野生の「古能美」(木の実)や「久多毛能」(果物)を採って食べていました。この間食が「果子」と呼ばれるものになったと考えられています。食べ物を加工する技術のなかった太古には、果物の甘みを特別な恵みと感じ、主食と区別していたのでしょう。

古代の菓子

古代から栽培されていた果実、栗と柿。栗 / 日本に自生していた野生のクリ「シバグリ」。果実が小さい。柿 / 1214年に現在の川崎市で発見され、甘柿として日本で最初に記録されたという、最も古い品種のひとつと言われる柿「禅寺丸」
写真 / シバグリ:国立科学博物館 筑波実験植物園 禅寺丸:横浜市こども植物園

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日本最古の加工食品

その後、木の実を天日で乾燥させて保存したり、石臼やこすり石、石槌などで粉砕して保存するようになりました。農耕が始められていたとはいえ、まだ食べるものが不充分だったその頃、椚や楢の実(どんぐり)も食べていましたが、アクが強くてとてもそのままでは食べられません。それらの木の実を砕いて粉にして水に晒すことによりアクを抜き、団子状に丸めて熱を加えるなどしたことが団子の始まりといわれています。
やがて、日本最古の加工食品といわれる「餅」が誕生します。『倭名類聚抄』(934年)などでは、「毛知比」や「持ち飯」と記録されていますが、当時は、何よりも大切な米を原料としてつくられたわけですから、とても神聖なものとして扱われたことが『豊後風土記』などに見ることができます。

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古代の甘味、あまづらとは

現在の菓子の甘味には砂糖を使っていますが、昔の甘味とはどのようなものだったのでしょう。まず、米を発芽させた「米もやし」を使ってでんぷんを糖に変える「飴」がありました。後年には麦芽が使われるようになりますが、米もやしの水飴は『日本書紀』にも登場します。それから、「甘葛」(あまづら)という冬期におけるツタの汁を煮詰めた、一種のシロップがありました。『枕草子』に「削り氷(けずりひ)にあまづら入れて、あたらしき金鋺(かなまり)に入れたる」とあり、今で言うかき氷にあまづらを入れて金物の器で食した様子がうかがえます。あまづらは贅沢な貴重品で、長い間、諸国から朝廷や幕府への献納品とされていました。
砂糖が初めて日本に伝わったのは750年頃のことですが、広く使われるようになったのは江戸時代以降のことです。

奈良女子大学大学院により復元・採取された「あまづら」。
奈良女子大学大学院により採取・復元された「あまづら」。※注1

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唐菓子(からくだもの)の影響

やがて遣唐使(630年~894年のあいだに延べ19回派遣されたという)が、唐朝から持ち帰ったものの中に「唐菓子(からくだもの=からがし、ともいう)」がありました。この唐菓子は、「梅枝(ばいし)」「桃子(とうし)」「餲餬(かっこ)」「桂心(けいしん)」「黏臍(てんせい)」「饆饠(ひちら)」「鎚子(ついし)」「団喜(だんき)」などと呼ばれ、米、麦、大豆、小豆などをこねたり、油で揚げたりしたもので特徴のある形をしており、祭祀用として尊ばれました。この唐菓子が、和菓子に大きな影響を与えたと考えられています。

8種の唐菓子

8種の唐菓子

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茶道と和菓子

次に、大きな影響を与えたのは喫茶の流行です。
お茶は鎌倉時代初期(1191年頃)に、栄西禅師が大陸から持ち帰って伝えましたが、やがて喫茶の風が広がり、茶の湯が流行します。
室町時代の茶席には、「点心」と呼ばれる、定時の食事以外の軽食がありました。その中に「羹(あつもの)」という汁があります。具材によって「猪羹」「白魚羹」「芋羹」「鶏鮮羹」など48種類の羹があったといわれていますが、その中に「羊羹」がありました。羊羹は羊の肉の入った汁でしたが、当時、獣肉食の習慣のなかった日本では、羊の肉に似せて麦や小豆の粉などで象ったものを入れました。その羊の肉に似せたものが汁物から離れて誕生したのが「羊羹」の始まりで、当時は「蒸羊羹」でした。のちに、寒天が発見され、煉羊羹に変化するのは寛政年間(1800年前後)の頃です。
茶の湯の菓子としては「打栗」「煎餅」「栗の粉餅」「フノヤキ」などがありましたが、それらが和菓子の発展につながっていきます。

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南蛮菓子の渡来

その後、ポルトガル人やスペイン人により南蛮菓子が渡来します。ボーロ、カステイラ(※カステラのこと)、金平糖(こんぺいとう)、ビスカウト(※ビスケットのこと)、パン、有平糖(あるへいとう)、鶏卵素麺などで、現在でも食べられている和菓子の原型となりました。

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江戸時代に開花

江戸時代に入って、和菓子は大きく発展します。
江戸時代以前は、国内で常に戦(いくさ)があり、とても菓子を楽しむということのできない時代でしたが、江戸時代になって戦乱が止み、平和になったことから、菓子づくりに力を注ぐことができるようになり、飛躍的に発展していきます。日本中の城下町や門前町で独特の和菓子が生まれたのもこの時代ですし、京都の京菓子と江戸の上菓子が競い合うようにして、菓銘や意匠に工夫を凝らした和菓子が次々に誕生しました。
現在食べられている和菓子の多くは、江戸時代に誕生したものです。

江戸時代の菓子見本帖『御蒸菓子御見本』と『御干菓子御見本』。

江戸時代の菓子見本帖『御蒸菓子御見本』と『御干菓子御見本』。江戸時代の和菓子の大成がよくわかる
所蔵 / 名古屋市蓬左文庫

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明治以降の発展

明治時代になると、西洋の文化が急速に伝わり、和菓子にも大きな影響を与えました。中でも西欧の調理器具は、和菓子に飛躍的な発展をもたらしました。たとえばオーブンの登場により、栗饅頭やカステラ饅頭などの焼き菓子類の多くが明治以降に誕生したのです。

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和菓子の創意工夫

和菓子は、古来より外来文化などの影響を受けつつ発展してきました。そして日本人の素晴らしさは、伝来してきた菓子を食して理解し、吸収して自分のものとした上で、単なる物まねではない、優れた日本の菓子を創造したということです。和菓子には、日本人の創作性が活かされているといえるでしょう。

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※注1
奈良女子大学大学院では、2011年1月に「文化史総合演習」「Web情報実習」授業成果報告会において、「古代から中世の菓子の歴史」の研究報告や「甘葛煎」の講演会とともに「古代の甘味料“甘葛煎”の復元」を行った。北九州市在住の甘葛煎研究者・石橋顕氏の指導のもと、大学構内のツタを切り出したのち、太いツタは自転車チューブと空気入れやコンプレッサーを利用し、細いツタは口で吹き出して樹液を採取。布で漉したあと、煮詰めて復元。約5分の1に煮詰めた状態で軽いアメ状となり、糖度75%という高い糖度を示した。ハチミツとほぼ同じ甘さで、雑味のないプレーンな甘さだという。詳しくは奈良女子大学のサイトにて公開。
写真/奈良女子大学大学院人間文化研究科組織的な大学院教育改革推進プログラム「女性の高度な職業能力を開発する実践的教育」(平成20年度~22年度)国際社会文化学専攻
http://www.nara-wu.ac.jp/grad-GP-life/bunkashi_hp/amadzura/amadzura_hp.html

注釈写真

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